2008年
2007年
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その10) |
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“貝原益軒 「養生訓」” 中公クラッシクスより抜粋 養生の大要 内欲を少なくし、外邪を防いで、からだを時々動かし、睡眠を少なくする。この四つが養生の大要である。 気を養う 気を和平にし、荒くしてはいけない。静かにしてむやみに動かしてはいけない。ゆっくりするのが良く、急なのはいけない。口数を少なくして気を動かしてはいけない。いつも気を丹田に集中して胸にのぶらせぬことである。これが気を養う法である。 気をめぐらす 古人は詠歌や舞踏をして血脈を養った。詠歌というのは歌を歌うのだし、舞踏というのは手で舞い足で踏むのである。みな心を和らげ、からだを動かし、気を循環させてからだを養う。養生の道である。 四募とは 思いを少なくして、神(心)を養い、欲を少なくして精(たましい)を養い、飲食を少なくして胃を養い、言を少なくして気を養わねばならぬ。これが養生で四募(しか)というものだ。 七養とは 摂生の七養というものがあるこれを守らないといけない。一は言を少なくして内気を養う。二は色欲を戒めて精気を養う。三はうまい味を少なくして血気を養う。四は唾液を飲んで臓気を養う。五は怒りをおさえて肝気を養う。六は飲食を制限して胃気を養う。七は思慮(心配ごと)を少なくして心気を養う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 長いのはよくない 長時間歩き、長時間すわり、長時間たち、長時間横になり、長時間話をするのはよくないこれは長時間動いて浮かれるから気が減るのだ。また長時間安逸にしていると気が塞がる。気の減るのと塞がるのとは、ともにからだの害となる。 四養とは 養生の四養は、むかっ腹を立てることをせず、心配を少なくし、言を少なくし、欲を好むのを少なくするにある。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その9) |
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“ 貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックスより抜粋 怒れば氣のぼる 『素問』に「怒れば氣上る。喜べば氣緩まる。悲しめば氣消ゆ。恐るれば氣めぐらず。寒ければ氣閉ず。暑ければ氣泄る。驚けば氣乱る。労すれば氣へる。思えば氣結ぼる」とある。すべての病気はみな氣からおこる。病気というのは気が病むのである。だから養生の道は氣を調整することにある。調整するというのは、氣を和らげて平らかにすることである。およそ氣を養う道は、氣を減らさないのと、氣を塞がないのとにある。氣を和らげて平らかにすると、この二つの心配がない。 丹田に力を へそから下三寸を丹田という。両方の腎のあいだの動気はここにある。『難経』に臍下腎間の動気は人の生命なり。十二経の根本なり」と書いてある。ここが人のからだの生命の根本がある場所だ。氣を養う術は常に腰を正しくすえ、氣の精を丹田に集中し、呼吸を静かにし、ことにあたっては胸の中から何度にもかすかに氣を口の中に吐き出して、胸中に氣を集めないで、丹田に氣を集める。このようにすれば氣がのぼらず、胸が騒がず、からだに力ができる。貴人に対して物を言うときも、大事変にのぞんで落ち着かぬ時も、このようにするがよい。やむをえず人と論争しなければならぬ場合も、怒気のためにきずつけられず、かるがるしくならず、間違わない。あるいは武芸・武術に励み、武士が槍・刀を使って敵と戦うにも、みなこの法を主とすべきである。これは何か一生懸命やろうとして、氣を養うのにためになる術である。およそ技能をふるおうとするもの、特に武士はこの法を知らなければならぬ。また道士が氣を養い、僧が座禅するのもみな氣の精をへその下に集中する方である。これは平静のかえる工夫であり、技能をふるうものの秘訣である。 七情の戒め 七情というのは、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲のことである。医書のほうでは、喜・怒・優・思・悲・恐・驚を七情にしている。また六欲というのがある。耳・目・口・鼻・身・意の欲のことである。七情のうち、怒と欲の二つが、もっとも徳を傷つけ、生をそこなう。怒りを抑え、欲を我慢するのは『易経』の戒めである。怒りは陽に属し、火がもえるようである。人の心を乱し、元気をそこなうのは怒りである。おさえて忍ばないといけない。よくは陰に属する。水が深いようなものだ。人の心を溺れさせ、元気を減らすのは欲である。注意して我慢するがよい。 十二少とは 養生に一つの要訣がある。要訣とはいちばん大切な奥義である。養生に志す人はこれを覚えていて実行するがよい。その要訣というものは少の一字である。少とは万事をみな少なくして多くしないのをいう。すべてひかえめに、いわば欲を少なくするのをいう。欲とは耳・目・口・体のむさぼり好むをいう。酒食を好み、好色を好むの類である。およそよくの深いのを積み重ねていると、からだをそこなって命を失う。欲を少なくすると養生になり命を延ばす。欲を少なくするにその項目が十二ある。「十二少」と名ずけられている。必ずこれを実行することだ。食を少なくし、飲むものを少なくし、五つの味のつけすぎを少なくし色欲を少なくし、口数を少なくし、事を少なくし、怒りを少なくし、憂いを少なくし、悲しみを少なくし、思いを少なくし、寝るのを少なくすべきである。このように何でも少なくすると元気が減らず、脾腎をそこなわない。これは長生きする道である。十二に限らず何事も身のおこないと欲とを少なくするがよい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 物事に数多く、幅を広げすぎてはいけない。数が少ない、幅が狭い方がよい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その8) |
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“ 貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックスより抜粋 みずからを欺かず 養生の要点はみずから欺くことをしないように、よく我慢することのある。みずから欺くというのは自分で悪いこと知っていることを嫌わないでするのをいう。悪いと知っていてするのは、あくを嫌うのが真実でないということだ。これがみずから欺くことである。欺くとは真実でないことだ。食事に限っていえば、たくさん食べるのは悪いと知っているが、悪いことを嫌う心が真実でないとたくさん食べてしまう。これがみずから欺くことである。その他のことも、これから推しはかれば良い。 完璧を望むな すべてのことは、十のうち十までよくなろうとすると、心の負担になって楽しみがない。不幸もここから起こる。また他人が自分にとって十のうち十までよくあってほしいと思うと、他人の不足を怒りとがめるから、心の負担となる。また日用の飲食・衣服・器物・住宅・草木などもみな華美を好んではいけない。多少ともよければ間に合う。十のうち十までよいものを好んではならぬ。これもみな自分の気を養う工夫である。 よく知ること ある人が、養生の道は飲食・色欲をつつしむのと同じであることは皆が知っている。しかし、つつしみがたく気ままになりやすいから、養生ができないのだといった。私はそうは思わない。これはまだ養生の術をよく知らないのだ。よく知ったら、どうして養生の道を行わないでいられよう。水に落ちれば溺死する。火に入れば焼死する。砒霜(ひそう・三酸化砒素の結晶)を飲めば中毒死することは、誰でも知っているから、水火にとびこんだり、砒霜を飲んだりして死ぬ人はない。多欲が生命をきずつけることは、刀で自殺するのと同じだという道理を知っていたら、どうして欲を我慢せずにいられよう。すべてその道理をはっきり知らないことは、迷いやすく間違いやすい。人が間違って不幸になったのは、みな知らないから起こったのだ。赤ん坊が這っていって井戸に落ちて死ぬようなものだ。 養生の道をよく知っていたら、どうして慾のままになって、身を慎まずにいられよう。 中を守る 養生の道は中を守るがよい。中を守るというのは、過不足のないのをいう。食物は空腹をなくすだけでやめておくがよい。間違って食べ放題になってはならぬ。これが中を守ることである。なんにでもこうするがよい。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その7) |
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“ 貝原益軒 「養生訓」” 中公クラッシクス より抜粋 胃の気とは 胃の気とは元気の別名である。沖和(ちゅうか・やすめ和らげる)の気である。病気が重くとも胃の気のある人は生きる。胃の気のない人は死ぬ。胃の気の脈は、長くなく、短くなく、遅くなく、速くなく、大きくなく、小さくなく、ちょうど年齢にあってほどよくやわらかく、きれいである。この脈は何とも名のつけようがない。自分で会得するよりほかはない。元気の衰えない無病の人の脈は、こういうものである。これは古人の説である。養生する人はいつもこういう脈を願うことだ。養生しないで気の減った人は、若くてもこういう脈が少ない。これは病人である。病脈だけがあって胃の気の脈のない人は死ぬ。また目に精神のある人は長生きする。精神のない人は命が短い。病人をみるにもこの術を使うがよい。 心をゆたかに 養生の術は、荘子がいったように、名調理師包丁(ほうてい)が牛を料理した如くであるべきだ。牛の骨の関節には隙間がある。肉切り包丁の刃はうすい。うすい刃を広い関節の隙間に入れれば、刃は動く余裕があって骨に触らない。それだから19年間も牛を料理してきたのに、包丁の刃はいま研いだばかりのようだったという。人の世においても、心をゆたかにして物と争わず、利にしたがって行動すれば、世にさわりがなく、天地が広い。こういう人は意に地が長い。 唾液を大事に 唾液はからだ全体の潤いである。変化して清血(血液の純粋なもの)となる。草木に精液がないと枯れる。大切なものである。唾液は内臓から口の中に出てくる。唾液は大事にして、吐いてはいけない。ことに遠くつばを吐いてはいけない。気がへる。 病気にあった治療を 何事もあまり良くしようとして急ぐと、きっと悪くなる。病気の治療もまた同じである。病気になったといって、医者を選ばず、むやみに医者を求めたり、薬を飲んだり、また鍼灸をむやみにしたりするのは害になることが多い。導引や按摩もそうだ。病気に適応するかどうかを知らないで、むやみに治療を求めてはいけない。温泉療法もまたそうである。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その6) |
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“貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックス より抜粋 食後は寝るな 酒食の気がまだ消化しないうちに横になって寝ると、きっと酒食がとどこおって気がふさがり、病気になる。警戒しなければならぬ。昼はけっして横になってはならぬ。大いに元気をそこなうものである。昼はけっして横になってはならぬ。大いに元気を損なうものである。もしひどく疲れたら後ろに寄りかかって寝るが良い。もし横になるのだったら、そばに人を置いて少しの間寝るが良い。長く眠ったら人に呼びさましてもらうが良い。 過信は禁物 養生の道で過信は禁物である。自分の身体の強いのを過信したり、若さを過信したり、病気が軽快したことを過信したりするのは、みな不幸のもとである。刃がよく切れると過信して堅いものをきると刃がこぼれる。気の強いのを過信してむやみに気を使いと、気が減ってしまう。脾腎の強いのを過信して飲食・色欲を過ごすと病気になる。 自分をかわいがりすぎるな 心は楽しませねばならぬ。苦しめてはいけない。からだは骨折らせねばならぬ。休ませすぎてはいけない。およそ自分をかわいがり過ぎてはいけない。おいしいものを食べ過ぎ、うまい酒を飲みすぎ色を好み、からだを楽にして、怠けて寝ているのが好きだというのは、みな自分をかわいがりすぎるのだから、かえってからだの害になる。また病気で無いのに補薬(精力を補うための薬)をむやみにたくさん飲んで病気になるのも、自分をかわいがりすぎるのである。子をかわいがりすぎて、この不幸となるようなものである。 飲食と睡眠 飲食はからだを養い、睡眠は気を養う。しかしあまり飲食を制限すると脾胃を損なう。寝るときでないのに寝ると元気を損なう。この二つは、養生をしようとしてかえってからだをそこなう。よく養生する人は、早くおき、夜半に寝て、昼間は寝ず、いつも業務に励んで怠らず、睡眠を少なくし、精神をすがすがしくし、飲食を少なくし、腹の中をきれいにする。このようだから、元気がよく循環が妨げられず病気にならない。生じてきた気は養分を得て、血気はおのずから盛んになり病気にならない。この寝食の二つが適当に制限されるにが、また養生の要点である。 心を楽しませる ひとり家にいて、静かに日を送り、古書を読み、古人の詩を吟じ、香をたき、古い名筆を写した折本をもてあそび、山水を眺め、月花を観賞し、草木を愛し、指揮の移り変わりを楽しみ、酒はほろ酔い加減にのみ、庭の畑にできた野菜を膳に上すのも、みな心を楽しませ気を養う手段である。貧賤の人もこの楽しみならいつでも手に入れやすい。もしこの楽しみを知っていれば、富貴ではあるが楽しみを知らない人に勝るといえる。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その5) |
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昨年4回にわたって「養生訓」から学ぶと題して連載してきました。またいつか連載してみたいと思っておりましたが、お休みしていた期間に、「連載してほしい」とのメール等をいただき、今回から始めてみたいと思います。これはあくまで「養生訓」からの抜粋ですので、興味をもたれた方は是非本を求めて学んでみてください。養生することの大切さと、その意味を知ることが出来ます。 皆さんの体調が守られ、元気に一日一日を過ごしていけますようねがっております。 “貝原益軒 「養生訓」” 中公クラシックス より抜粋 総論 下 食氣のとどこおらぬよう およそ朝は早く起きて、手と顔を洗い、朝の行事を済ませ、食後にはまず腹を何度も撫で下ろし、食氣の循環を良くする。また京門のあたりを人差し指の内側で斜めに何度も撫でるが良い。腰も撫で下ろし、下部を静かにたたく。きつくたたいてはいけない。もし食氣がとどこおったら、顔を上向けて三、四度食毒の気をはく。朝夕の食後に長く楽な姿勢で座ってはいけない。横になって寝るようなことは、けっしてしてはならぬ。長く座り、横になって眠ると、気がふさがって病気になり、度重なると命が短くなる。 からだを動かす 家にいたら、時々自分の体力で辛くない程度の運動をするのが良い。たったり座ったりするのをめんどうがらず、室内のことは召使いを使わないで、何度も自分で立ってからだを動かすことである。 こうやっていつもからだを動かしていると、気血の循環がよく食気がとどこおらない。これが養生の要術である。 じっとしていない 華陀の言ったことに「人の身は労働すべし。労働すれば穀気消えて、血脈流通す」とある。およそ人間のからだは、欲を少なくし、時々運動し、手足を働かせ、一箇所に長く座っていないようにすれば、気血は循環してとどこおらない。養生の要務である。毎日こうしないといけない。 「流水腐らず、戸枢むしばまざるは、動けばなり。形気もまた然り」
『千金方』にいう 『千金方』に養生の道では「久しく行き、久しく座し、久しく臥し、久しく視る」ことをしないようにといっている。 |
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私の治療室から(その5)「続鍼はなぜ効くの?」 |
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『鍼はなぜ効くんでしょうか?』 このところ数回にわたってわかりやすく?書いてきました。が、実際はわかりにくいものだと思います。 そこで、今回は幼児・小児の治療からお話してみることにしましょう。 当院には、毎日のように幼児・小児が治療に来ています。アトピーだったり、喘息だったり、便秘だったり、風邪だったり、中耳炎だったり、副鼻腔炎だったり様々な症状の子供たちが来ています。このホームページの「治療法」の中で触れていますが、小児用に用いているテイシンの写真が載っていますね。絵でしか見ないとどういうものかさっぱりわからないでしょうが、辛抱強くお付き合いください。 まずは、このテイシンからお話していきましょう。 当院で使っているテイシンは、20金の金鍼で、皮膚に刺し入れない鍼なのです。実際には、刺さないどころか、幼児・小児に使う場合には特に、皮膚に接触すらしません。それで効果が現れるのです。この鍼を近ずけることによって、身体が良いほうに変化し、氣の過不足を調整し、症状を取り去るのです。先にあげた症状がありますが、これらの症状が改善され、完治へと導かれるのです。当然、大人と治療法は殆んど変わりません。そこには鍼数(ドーゼ)の差がありますが。 鍼治療のイメージといえば、鍼を刺す。刺すことで身体に刺激を与える。その結果、痛み等が治るという感じです世ね。 ところが、私が実際に幼少児に使っている鍼(テイシン)は、この観念を覆すものです。刺さないのに治っていく。そこにあるものといえば、刺激ではなく、氣の調整による治療というしか考えられないでしょう。 この氣の調整こそが古来からおこなわれてきている治療法(氣を調整する治療法=経絡治療)なのです。 「鍼は痛いもの。お灸は熱いもの」 もうこういう考え方ををやめましょう。このために、せっかくある治す機会が、失われては大変残念です。 幼少児が笑いながら、ニコニコしながら、お話しながら受けられる治療なのです。 氣の調整をおこなう経絡治療に、少し期待してみませんか。 『百聞は一見にしかずです』 一度経絡治療鍼専門の治療院へ行ってみてください。そこにはあなたの求めているものがありますよ。 |
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私の治療室から(その4)「続鍼はなぜ効くの?」 |
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「鍼はなぜ効くの?」とやさしくわかりやすくをモットーに書いてきましたが、一向にわかりやすくかけないようです。でも、基本的なことは少しは理解いただけたかと勝手に思うことにしました(自分のふがいなさに気落ちしていますが、どうにもなりませんので、お許しください) 今回は、少し違うお話をしてみたいと思います。 例えば、肩が痛む、肩がこる、腕が痛くて上がらないという症状の方がおられます。私は、経絡治療を行う鍼師ですので、一般的にイメージされる痛むところにハリネズミのようにいっぱい鍼をするわけではありません。その原因となっている氣・血の変動(経絡の変動)をとらえ、全身の調整をしていきながら、個の部を調整していく治療法をおこなっています。 つまり、痛む部位への刺鍼も大切ですが、その部を通る経絡の変動を整えることも大変大切なことなのです。ですから、よく肩が痛むのに下肢への刺鍼で痛みをとったり、背中への刺鍼によって取ったりします。「不思議ですね。足に鍼をしたのに肩や、頸が楽になってきました」と、よく患者さんが言われます。実に不思議なことのようですよね。でも、これは魔法でも、不思議なことでもないのです。 経絡と言われる氣の流れが、ある一定の幅と深さを持っているため、肩のどの部に痛みがあるかによって、その部を通る経絡を調整することによって、その部の痛みを和らげていくためです。ですから魔法でもなく、不思議なことでもないのです。当たり前のことなのです。 前にも書いていますが、内臓を中心に全体を考える東洋医学においては、からだそのものが各内臓の支配下にあり、その反応の表れとして痛み等が出ていると考えます(実際に臨床に携わっていますと、非科学的なことと笑ってしまう人もいますが、まさにそのとおりと驚きの連続なのです) 鍼は痛むところへの刺鍼刺激で治すというだけでは、解決できないことが多いのです。そこには古典で言われている氣・血、虚・実、陰・陽という概念を中心とした刺鍼技術が必要となるのです。その体系が『経絡治療』ということになるでしょう。 私自身、鍼の勉強をすることになる前に聞いた「鍼灸マッサージは慰安業だよ」という言葉にそうではないはずと思いつつ、勉強をしているときに経絡治療に出会いました。私にとってすばらしい出会いとなりました。2000年も3000年も続いてきている鍼灸は、決してそのようなものではないのです。 鍼灸は病人を診ながら病気を治していく、れっきとした医学(東洋医学)です。少しでも、皆さんの意識が変わり、具合の悪い方が鍼にいけば楽になれ、治してもらえると思ってもらえるよう、益々鍛錬を積んでいかねばと思わされています。 これからも、健康に関すること、私なりに考えていること等、書いて参りますのでよろしくお願いいたします。 |
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私の治療室から(その3)「続鍼はなぜ効くの?」 |
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「鍼はなぜ効くの?」と今回で3回目となりますが、書けば書くほどわかりやすくかけず、少し自己嫌悪に陥ってしまいました。わかりやすく書くことは難しいものだと改めて思い知らされています。しかし、このまま終わったのではさっぱりわからないままになってしまいますので、別の角度から再度チャレンジしてみることにしました。私が普段治療室で話していることなどをベースにしてみます。 まず、その1で書きましたように一般的な鍼のイメージは痛むところ・悪いところに鍼を刺して痛み等をとってくれると言うことのようです。これは大きな間違いではありません。実際にテレビや最近良く聞く健康番組等では、「この穴はどこそこに効く穴」「足のむくみにはこの穴を刺激してください」とかわかりやすく紹介しています。これは、東洋医学・鍼灸を普及すると言う観点ではいいのでしょうがこれだけでは東洋医学のすばらしさを伝えられません。 私たちは、生まれてこれまで西洋医学の中にどっぷりとつかり、西洋的な科学の中で生活しています。ですから鍼灸の世界においても病名・症状からこれに効く何々と考えてしまいます。鍼灸・東洋医学に携わっている私でさえ、ついつい西洋的なものの考え方をしてしまいます。ですから無理もないのです。でも東洋的な思想の中で生まれてきた鍼灸・東洋医学は、やはりその生まれてきた思想背景で考えていかなければ本来の意味を間違って解釈してしまいます。 またまた難しくわかりにくいことを書き連ねてしまいましたが、大切な部分ですので書いてみました。不十分な説明ですが、鍼灸の根底に流れる東洋的な思想・考え方と言うものがあることをご理解ください。 では、わかりやすく私が治療していることから書いてみましょう。 『頭痛のある患者さんの場合』 例えば偏頭痛の方で頭の脇が傷むという人がいます。一般的なイメージからすれば痛むところに鍼をすれば良い訳ですから、その部に何回も鍼をすることですむでしょう。でも、東洋的な古典鍼灸ではそうは考えません。「どうしてこの部に痛みが出るのか」これを東洋的に考察します。これを四診法(望・聞・問・切)を駆使し、原因(経絡の変動)を探ります。このときに切診のなかに含まれる脉診・腹診を十分に活用して経絡変動を見極めます。そして治療に入るのです。 その結果、この経絡変動を調整することによって、訴えのあった頭痛がなくなっていきます。このことは痛みをとるのみでなく、頭痛を発症しているからだの歪をも治しているのです。 次に、目の下にくまが出来ることがありますね。これは体が疲れきってぐったりしているようなときに見かけられます。それではこれを治すのにそこに鍼をするのでしょうか。そうされる方もいられるかもしれませんが。これは「胃・消化器系」の反応ですから体の示す変動経絡を理論によって調整することで次第に回復してくるのです。 このように、東洋医学のおける鍼灸は、東洋的な理論によってのみその力をフルに発揮できるといえるでしょう。 「鍼はなぜ効くの?と問われて答えるとすれば、東洋的な思考の内臓を中心とした経絡の変動が起こすからだの歪を鍼によって調整できるからです」と答えてしまいます。わかりにくいでしょうが。 ポイント 消化器の症状で次のようなことがあります。 1.お腹がすいているのに食べるとすぐにお腹が一杯になる。 2.お腹がすかないのに食べ始めると一杯食べれてしまう。 3.お腹もすかないしあまり食べたいとも思わない。 これらはそれぞれに意味のある経絡変動を表しています。このような症状がある時には無理をして食べすぎず、からだを回復させることに心がけてください。 |
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私の治療室から(その2)「続鍼はなぜ効くの?」 |
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「鍼はなぜ効くんだろう」との疑問について、前回少しお答えしましたが、『氣』がポイントとだけお話して終わってしまいました。 治療とは、「手当てから」始まったとも言われます。痛むところに手を当てることから始められましたそのことからすると、痛むところに鍼を刺す。痛むところを揉み摩る。と言うことはわかりやすいでしょう。しかし、それのみに留まらず、『氣』の存在を発見し、経絡経穴を見つけ出すことによって、経絡中に流れる氣・血の過不足を調整する方策を見つけ出したのです。この調整によって病や痛み等を治癒させていくことが更にパワーアップされていきました。この体系が完成し、古典と言われる医学書(黄帝大経)が紀元後間もなく完成されています。 ちょと難しい話になってしまいました。出来るだけわかりやすく例を挙げながら解説してみましょう。 例えば腰痛の場合。 当院に初めて来られて腰痛を訴える患者さんの中で、すぐにうつ伏せになって待っておられる方がいらっしゃいます。腰が痛いので、腰に鍼をしてもらいたいとの思いが働くのでしょうか。これに関しては、鍼灸未経験者でも同じ光景を見る事があります。つまり、潜在的に鍼は痛むところに刺すものとの固定観念があるのでしょうか。これもひとつの方法ではありますが。 私はすぐに仰向けになってもらい、問診等を行い、脉診を経て腰痛を起こしている基となる経絡の変動(氣・血の過不足)を見極めます。そして、この変動を調整することによって経絡のバランスをとり、そのことによって内臓(臓腑経絡)バランスを取っていきます。 その結果、腰痛を治そうとする力が増し(もともとあるが低下している治癒力を回復させる)痛みを取り除いていくことが出来るのです。 この際の刺鍼箇所は、病体が教えてくれている「証」によって示された手・足の要穴に対して行われます。この治癒力をまず増進させる刺鍼が大切なのです。 仕上げとして、痛む箇所への刺鍼を数本加えて治療を終えます。 やさしく書こうとすればするほどどつぼにはまってしまい、益々わかりにくくなってしまいました。 乳幼児の治療などは、てい鍼(ていしん)と呼ばれる刺さない鍼を用います。先ほど書いたように、体があらわす「証」によって手足の要穴にこの鍼を近ずけるだけで改善されていきます。 痛むところに鍼を刺し、刺激して改善させるとはずいぶん違いますよね。 「なぜ鍼は効くのか?」との答えにはなっていないようですが、鍼は痛むところに刺して刺激を与えて治癒させるというだけのものではなく、二千年以上前から伝えられてきている『氣』を調整すると言う極めて神秘的な刺鍼法・技術によってのみ達成されていくものといえます。 ポイント 「体が重く疲れやすい。気持ちが落ち込んで何にも出来なくなる等。この他、症状がある場合には必ず経絡の変動があります。氣による調整が必要です」 |
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私の治療室から(その1)「鍼はなぜ効くの?」 |
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連日、患者さんの訴えられる症状を何とか和らげよう、具合の悪い状態を少しでも良い方向に向けていきたいと苦戦・善戦の日々を送っております。そんな中で、脉を診たり鍼をしたりしていますと、多くの疑問や質問を受けることがあります。 今回は、その中から『鍼はなぜ効くんですか?』との素朴な質問が心に残っていますのでそのことからお話していきたいと思います。 よく痛いところに手を当てる(手当て)ことで、少し痛みが和らぐように思うことがあります。これはその部に手を当てるということで、軽く圧迫する、手の温もりで冷えているところに温かみを与える等、その傷む部分を軽く刺激することで痛みが引いていきます。 このように考えますと、鍼も同じことのように思えますね。実際、このような考え方で鍼灸を行っている方々が圧倒的に多いことも事実のようです。生理学の詳しいことを明記できるほど優秀ではない私としては、皆さんの感覚的な面にすがりながら記載することになりますが。 つまり、痛むところに鍼をする、灸をすえると言うことは、なんとなくわかるような気がしますね。 「鍼をすると血行がよくなって痛みが引くんですね」なんかはよくお聞きすることです。 でも経絡治療の立場からは、違うのです。確かに反射作用としての効果は認めないわけにはいかないでしょうが、『氣』はこれをはるかに凌駕する力があると言ったほうがいいでしょう。 私には、気功師のような強い氣を持っているわけではありませんが、鍼という用具を通して生体と 『氣』の交流を行いながら、病態を治癒へと導いていくのです。 誰しもが『氣』を持っており、生体から『氣』を出しているのです。目には見えませんので厄介ですがある方法によってこの『氣』を感じ取ることは可能です。 こんなことを書いてしまうと「なんだか危ない人」と思われてしまいかねませんね。でも、鍼灸の始まりからこの『氣』と言う概念が大切にされてきたのです。 前置きが長くなってしまいました。この続きは次回にさせていただきます。 ポイント 「バランスの取れた身体は、免疫力を高め、病体を治癒へと導きます」 |
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貝原益軒「養生訓」から学んだこと |
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貝原益軒の「養生訓」から4ヶ月に渡って学んできました。現代人にとってはかなり耳の痛い話の連続だったようです。これまでの内容でお分かりいただけたことと思いますが、すべてに過ぎることは気の滞りを招き、身体の中庸が保てなくなって病気へと傾いていくと言うことです。そして中庸に保つと言うことが、大変難しいと言うこともお分かりいただけたでしょう。このことは、私も含めて皆さんも体験から良くわかっていることですね。 治療室で治療させていただいていますと、良くこの中庸の難しさを感じさせられます。「わかっているんですけど、なかなかやめられなくて」「皆と違う服装が出来ないんです。寒くてきついんですけど。高校を卒業したら暖かい服装にします」「ついつい寝る前になると小腹がすいて食べてしまうんです食べると朝食が食べられなくなってしまうんですが」等々。 自分の欲求に、人の見る目になかなか勝てません。人生一度きり、楽しまなければと言う人もいます。それぞれの人生ですからそれもいいのでしょうが。 でも次のことは言えるのでは。 治療体験から「自分の食欲に任せて食べています。特に、美食の時代と言われ高カロリー食を多く取っています」その結果、心臓に負担がかかるようになりました。つまり、心臓に血液を送る血管が細くなり、狭心症になったのです。治療と共に、食も改善していただき症状が改善されていきました欲に任せ食べ、多くのお金を使い、挙句の果てに医療費も多くかかるようになってしまいます。 私たちは、多くの過ちを犯しつつ暮らしてきています。つまり小過の連続と言えるでしょう。大過はすぐにわかるものですが、小過は知らず知らずのうちに身体を少しずつ変えていきます。 少しだけでいいです。生活を少しだけ見つめなおして診ませんか。 貝原益軒の「養生訓」は今回で終了といたします。まだ、内容的には「総論の前半の内容に過ぎませんが」また、改めて来年にでも連載したいと思います。 これを機会に、少しだけ我慢してみませんか。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その4) |
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引き続き貝原益軒の「養生訓」から学びつつ、皆さん健康のお役に立てればと思います。 来月は、私なりの総括をしてひとまず閉じたいと思っております。苦労せず、薬等で体調を整えようと安易に考えがちな現代人に注意を喚起していきたいものです。 「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」 気血のとどこおらぬよう 陰陽の気というものが天にあって、流動して滞らないから春夏秋冬がうまくいき、万物の生成がうまくいくのだ。陰陽の気がかたよってとどこおると、流動の道がふさがって冬が暖かで夏が寒くなったり、大雨・大風などの異変があったりして、凶作や災害を起こす。人のからだでもまたそうだ。気血がよく流動してとどこおりがないと、気が強くなり病気にならない。気血が流動しないと病気になる。その気が上のほうにとどこおると頭痛やめまいになり、中ほどにとどこおると心臓や腹の痛みとなり腹がはり、下のほうにとどこおると、腰痛・脚気となり、淋せん(排尿病)・痔漏となる。このためよく養生しようとする人は、できるだけ元気のとどこおらぬようにすることである。 心のなかの主人 養生を志す人は、いつも心の中に主人がなくてはならぬ。主人があると、思慮をして是非をみわけ、怒りを抑え、欲を防いで間違いが少ない。心に主人がないと、思慮がなく、怒りと欲とをこらえないで好き勝手なことをして間違いが多い。 我慢が肝心 何事でも、一時的に気持ちのいいことは、必ずあとで禍になる。酒食を好きなだけ取れば気持ちがいいが、やがて病気になるようなものだ。はじめに我慢すれば、必ずあとの喜びになる。 病気のもと 気は一人のからだの中の全体にいきわたるようにしなければならぬ。胸中の一箇所に集めてはいけない。怒り・悲しみ・憂い・思いがあると胸中の一箇所に気がとどこおって集まる。七情が過度になって、気がとどこおるのは病気のおこるもとである。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その3) |
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今月も貝原益軒「養生訓」から多くのことを学んでいきましょう。自分のしたいように生活をしている現代人には、耳の痛い話になるでしょうが、少しの時間自分の心の扉を開いて、取り込んでみませんか。何らかの力になると思います。 引き続き「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」いたします。 養生の術を学ぶ 人間にはいろいろわざがある。わざをみがく道を術という。すべてのわざには、習熟すべき術がある。その術を知らないと、そのことが出来ない。そのうち至って小さい芸能も、皆その術を学ばないで、そのわざを習わないと、そのことが出来ない。例えば蓑を作ったり、傘をはったりするのは、至極たやすい技ではあるが、それでもその術を習わないと作れない。まして人間の体は天地と合わせて三才というが、こんなに貴重な体を養い、命を保って長生きするのは、大変大事なことである。その術がなくてはならぬ。その術を学ばないで、そのことを習わないで、どうして養生と長生きが出来よう。そのくせ、小芸には必ず師を求めて、教えてもらって、その術を習う。なぜなら才能があっても、その術を学ばないでは出来ないからである。人の体は至って貴く、これを養生してたもつのは、至極大事な術なのに、師もなく、教えもなく、学びもしなければ、習いもしない。養生の術を知らないで、自分の心の欲に任せていては、どうして養生の道を身につけて、生まれつきの天寿を保てよう。だから、養生をして、長生きしようと思ったら、その術を習わないといけない。養生の術というのは、ひとかどの大道で、小芸ではない。心にかけてその術を勉強しなければ、その道に達しない。その術を知っている人から習得できれば、千金にも変えられない。天地・父母から受けた大変大切な体を持っていて、これを保全する道を知らないで、勝手に身を持ち崩して大病を受け、からだをなくし早死にするのは、なんとおろかなことだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 養生の暇がない こういう異論もある。養生の術などというものは、隠居した老人や、また若くても社会から離れてのんきにぶらぶらしている人にはいいかも知れないが、武士として主君や親に仕えて忠孝に勤め、武芸を習って体を動かしているものや、農・工・商にたずさわって昼夜家のわざに努力して時間がなく、からだに暇のないものには、養生など出来ないだろう。こういう人が、養生の術ばかりしていては、からだがふやけて、そのわざがのろくなって役に立たない、というのである。これは養生の術を知らない人の疑問で、無理もない。養生の術はのんきでぶらぶらしているだけが良いというのではない。心を静かにし、からだを動かすのが良いというのだ。体をのんきにさせるのは、かえって元気が停滞して病気になる。ちょうど流れている水が腐らず、戸の回転軸のところが腐らないのと同じだ。動くものは長持ちし、動かないものはかえって命が短いということである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 睡眠の欲 昔の人は三欲を我慢するようにといっている。三欲とは、飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲である。 飲食を制限し、色欲を慎み、睡眠を少なくするのは、みな欲をこらえることである。飲食と色欲を慎むことは、人は知っている。ただ睡眠の欲をこらえて、寝るのを少なくするのが養生の道であることは知らない人がいる。睡眠を少なくすると病気をしないようになるのは、元気が循環しやすいからである。睡眠が多いと、元気が循環しないで病気になる。夜遅くなって床に入って寝るのはいい。昼間に寝るのは最も害がある。日が暮れて早く寝ると食気が停滞して害がある。ことに朝夕に飲食がまだ消化せず、その気がまだ循環しないうちに早く寝ると、飲食が停滞して元気を損なうものだ。 昔の人が、睡眠を飲食・色欲に並べて三欲とするのはもっともなことだ。怠けて睡眠を好むと癖になって、睡眠が多くなり、こらえられなくなる。睡眠のこらえられないこともまた、飲食・色欲とおなじである。最初はしっかりこらえないと防げない。睡眠を少なくしようと努力して、習慣になると自然に睡眠が少なくなる。睡眠を少なくする習慣をつけることである。 少しの我慢 古い言葉に「莫大の禍は、須臾(しゅゆ)の忍ばざるに起こる」とある。須臾とはちょっとの間のことである。大きな禍は、ちょっとの間、欲をこらえないから起こるのだ。酒食・色欲など、ちょっとの間、少しの欲をこらえないため大病となり、一生の不幸となる。盃いっぱいの酒、碗半分の食をこらえないために病気になることがある。欲望は少ししか満たせないが、そのため傷つくことは大きい。蛍火ほどの日が家についても、盛んに燃えて大きな禍になるようなものだ。古い言葉に「犯すときは微にして秋毫の如し、病をなしては重きこと、泰山の如し」とある。まことにうまくいったものである。およそ小さなことが大きい不幸になることが多い。小さい過失から大きい不幸になるのは、病気の決まりである。警戒しないといけない。いつも右の古い言葉二つを心にかけて忘れてはならない。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その2) |
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先月に続いて、貝原益軒の「養生訓」から現代に欠け、見失っているものを学んでみましょう。 引き続き「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」いたします。 外物のたすけ 人間の元気は、もともと天地の万物を生む気である。これが人間のからだの根本である。この気がなければ人間など生まれない。生まれてから後は、飲食・衣服・住居などの助けで元気が養われて生命を保つ。飲食・衣服・住居の類もまた天地の生んだものである。生まれるのも養われるのも、みな天地・父母の恩である。・・・・・・・・・・ たとえば、草木に水と肥料との養分を過ごすと、かじけて枯れてしまうようなものである。だから人間は、ただ心の内の楽を求めて飲食などの外の養分を軽くしたほうがよい。外の養分が重くなると内の元気がそこなわれる。 心気を養うには 養生の術はまず心気を養うがよい。心を和らかにし、気を平らかにし、怒りと欲を抑え、憂いと思いを少なくし、心を苦しめず、気を損なわずというのが、心気を養う要領である。また寝る事を好んではいけない。ながく眠っていると、気が停滞して循環しない。飲んだり食べたりしたものがまだ消化していないのに、早く床に入って寝ると、食気がふさがって元気を損なう。用心しなければならない。酒はほろ酔いが良く、たけなわになるなかばでとめる。食は飽食のなかばにとどめ、腹いっぱいにしてはならぬ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ また風・寒・暑・湿を畏れ防いで、立ち居振る舞いに節度をもうけて慎み、食後には歩行してからだを動かし、ときどき導引をやって、腰や腹をなでさすり、手足を動かし運動して血気を循環させ、飲食を消化させるがよい。・・・・・ 外邪を防ぐ 風・寒・暑・湿は外邪である。これにあたって病気になって死ぬのは天命である。それは聖人・賢者でものがれられない。だが内気を充実させて、よく用心して予防すれば、外邪のおかしてくるのもまたまれである。・・・・・・・・・ 風・寒・暑・湿の外邪を予防しないのは怠慢である。飲食・好色の肉欲を我慢しないのは過失である。怠慢と過失とはみな用心しないからおこる。 心を安らかに 心はからだの主人である。この主人を静かに安らかにさせておかねばならぬ。からだは心の下僕である。動かして働かさねばならぬ。心が安らかで静かだと、からだの主人たる天君は豊かで、苦しみなく楽しむ。からだが動いてはたらけば飲食したものはとどこおらず、血気はよく循環して病気にならない。 内敵と外敵と およそ人間のからだは、弱くもろくはかない。風前の灯の消えやすいようなものだ。・・・・ いつも慎んでからだを大事にしたい。まして内外からからだを攻める敵が多いのだから、気をつけねばならない。まずは飲食の欲、好色の欲、睡眠の欲、また怒・悲・憂をもってからだを攻めてくる。これらはみな自分のからだの内からおこって攻めてくる欲だから内敵である。なかでも飲食・好色は内欲から外敵を引き入れてくる。もっとも恐るべきものだ。 風・寒・暑・湿はからだの外から入ってきて私たちを攻めるのだから外敵である。人間のからだは金石ではない。壊れやすい。ましてこんなに内外に敵を受けるのだから、内の慎みと外に対する防御がなくては、多くの敵に勝てない。まことに危ない。これだから人々は長寿を保てないのだ。用心を厳しくして、いつも内外の敵を防ぐ計画がなくてはならぬ。敵に勝たないと、攻め滅ぼされてからだをなくしてしまう。内外の敵に勝ってからだを保てるのも、その術を知ってよく防ぐからだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・ 内敵に勝つには、心を強くして忍の字を用いることだ。忍というのは我慢することである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ まさに現代人の私たちにとっては、耳の痛い話ばかりです。飽食をしてからだを壊し、病気を引き起こして高額な医療費を使い、しまいには健康保険制度そのものの存続が危ぶまれるような時代になっています。今一度考えなおさねばならないようですね。次回に続きます。 |
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貝原益軒「養生訓」から学ぶ(その1) |
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貝原益軒の「養生訓」から少し学んでみたいと考え、数回のシリーズに分けて書いていこうと思っておりますが、なかなかのボリュームで、しかも抜粋が難しくどれも貴重な言葉の連続です。私ごときが解説できる代物ではなく現代にも十分に通じる言葉ばかりです。その中で、皆さんと共に学び、是非実現実行していければと願います。 尚、貝原益軒は江戸時代の前期から中期にかけて活躍された方で、儒学者、博物学者、教育家として有名ですこの「養生訓」は彼の晩年に書かれた教訓書として有名です。 「中公クラシックス・貝原益軒 養生訓より抜粋」 「養生訓」 総論から 人間の体は父母をもとにし、天地をはじまりとしたものである。天地・父母の恵みを受けて生まれ、また養われた自分のからだであるから、自分だけの所有物ではない。天地からいただいたもの、父母の残して下さったからだであるから、謹んでよく養って、痛めないようにして、天寿を長く保つべきである。これが天地・父母に仕える孝の本である。・・・・・・・・・・・・・・・・・ 自分のからだに備わっているものは、小さな皮膚や髪の毛でさえ、父母から受けたものだから、むやみに痛めるのは不幸である。まして大きな生命を、自分ひとりのものと思って、慎まず、思うままに飲食・色欲にふけって、元気を損ない、病を求め、もって生まれた天寿をちじめて、早く生命を失うことは、天地・父母への最大の不幸で、愚かなことだ。・・・・・・・・・・・・・・・ もっぱら父母・天地に孝をつくし、人倫の道を行い義理にしたがって、出来ることなら幸福になり、長生きして喜び楽しむことが、誰も願うところでないか。こうなろうと思ったら、まずさきにいった道を考え、養生の術を学んで健康を保つことである。これが人生でいちばん大事なことである。・・・・・・・・・・・・・・・ 養生とは 庭に草木を植えて愛する人は、朝晩心にかけて、水をやったり、土をかぶせたり、肥料をかけたり、虫を取ったりして、よく養い、その成長を喜び、しおれるのを悲しむ。だが草木はごく軽いものだ。自分のからだは至って重い。どうして自分のからだを草木ほどにも愛さないでいいことか。・・・・・・・・・・・・ 身を慎み、生命を大事にするのは、、人間最大の義務である。 内欲と外邪と 養生の術は、まず自分のからだを損なうものを遠ざけることである。からだを損なうものは、内欲と外邪とである。 内欲_ 飲食・好色・眠り・しゃべりまくりたい欲と七情の欲(怒・喜・思・憂・悲・恐・驚) 外邪_ 天の四気(風・寒・暑・湿) 内欲をこらえて少なくし、外邪を恐れて防ぐのである。こうすれば元気を損なわず、病気にならず天寿を保つだろう。 内欲をこらえる およそ養生の道は、内欲をがまんするのを根本とする。この根本をしっかりやれば、元気が強くなって外邪も犯してこない。元気が弱いと外邪に負けやすくなり、大病となって天寿を保てない。内欲を我慢するのに大事なのは、飲食を適量にして飲みすぎ食いすぎをしないことだ。脾胃を傷つけ病気をおこすものは食べない。色欲を慎んで精力を惜しみ、寝るべきでないときに寝ない。長時間眠ることを戒め、楽だからといって長く座っていないで時々からだを動かし、気の循環をよくしなければいけない。・・・・・・・・・・・・・ 食べ物がまだ消化していないのに早く床に入って眠ってしまったりすると、からだの中に停滞が起こって病気になり、いつまでも繰り返していると、元気が出てこないで弱くなる。ふだんから元気を減らすことを惜しんで、言語を少なくし、七情をほどほどにするがよい。七情の中でも、とりわけ怒り・悲しみ・憂い・思いを少なくすることである。 欲を抑え、心を平らかにし、気を和らかにして荒くせず、静かにして騒がず、心は常に和楽でなければならぬ。憂い苦しんではならぬ。これはみな内欲をがまんして元気を養う道である。外邪を防いで負けないようにする。 これら内外のいろいろな用心は養生の大事な項目である。 まさに、現代にそのまま通じる文言である。自分の命は決して自分だけのものでなく、自分さえよければということは養生に反することとなる。 是非、参考にして養生していきたいものです。次回に続きます。 |
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食養生について |
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よく具合が悪いときや、風邪を引いたときなど、「栄養をつけないと元気になれないよ。とか、体が疲れぐったりしているにもかかわらず、もっと食べないと元気になれないよ」と言われ、肉等を一生懸命食べることが当たり前になっている昨今です。いつからこんな風になったのでしょうか。 私が幼かった頃には、あまり聞かなかったような気がします。元気な体を作るには、確かにしっかり食べることは大切ですが、果たしてからだが疲労し、まさに今、病と闘っている体にとって、しっかりと食べることはどうなのでしょうか。少し考えてみましょう。 その前に、ひとつ考えてみたいことがあります。 最近、粗食について話題となり、食べ過ぎの現代人に注意を喚起しています。私も粗食を勧めている一人ではあります。以前、ラジオを聞いていましたら、次のような話がありました。結構前のことでしたので正確には記憶していませんが、趣旨は次のようなことだったと思います。 最近話題の粗食に対して、少し批判的な立場からの発言です。 「ここまで平均寿命が延び、世界に冠たる長寿国となったのは、現代の栄養学の貢献が大きいと言えます。今、言われているような粗食では、ここまでの成果は出なかったのではないでしょうか」と言われました。 確かにこの点では貢献大とはいえます。戦前までの平均寿命はここまでではありません。しかし、食べすぎ、動物性のタンパク質の取り過ぎ等で半病人と言われる人たちが増えています。多くの場合、このような栄養過多の人たちが増え、高血圧・糖尿病・心臓病・脳梗塞・膠原病等多くの病気を生んでいると言えます。更に、アレルギーもタンパク質の摂取過多の結果、発症が増えているとの見解もあります。 栄養学によって寿命の飛躍的な延びが持たされましたが、その反面多くの弊害も生んできたのではと思わされます。それは、多くの方が病院を訪れ、多くの薬を服用している現状を見るときにそう思えてなりません。 今だからこそ、粗食が大切なのではと思えてなりません(私の勝手な思いですが) さて、前置きが長くなりましたが本題に戻ることにしましょう。 わかりやすく事例を挙げてお話しましょう。 1.仕事が忙しく、眠っても疲労がぬけない場合 多くの場合、体の疲れを栄養を一生懸命取り入れれば、疲労回復し元気になれると信じています。食べれば元気になれる。特に、肉等しっかり取ればもう大丈夫。と言う常識があります。 しかし、果たしてそうなのでしょうか。 体が疲れきっているということは、体の基本となる内蔵諸機関も当然その機能を低下させています。体が疲れているのに内臓だけが元気とはなりません。疲れがピークとなれば、それに伴って食欲は落ちているはずです。 食欲を落として、体は自己防衛をしているのです。疲れている胃・腸に食べることによって更に負担をかけ、回復を遅らせているのです。 2.風邪を引いて、熱が出、体がだるい状態 体は風邪を治そうと熱を出し、ウイルス等と戦っています。つまり、ウイルス等と戦うために熱を上げるのです。 この状態で食事をしっかりと取ると、血液の多くが消化管に廻され、せっかく戦って必要とされている血液が不足してしまう事態に陥ります。その結果、戦いに負け、風邪の状態が長引いてしまいます。 これは極端な話ですが、できるだけ少食にし、余力を残しておく必要があるといえるでしょう。 このように、単に食べればいいというものではなく、そのときの体の状態によって、つまり体に聞きながら食べる必要があるといえるでしょう。 「腹八分に病なし」常人でこの数値です。具合の悪いときは「腹六分」ぐらいの必要があるでしょう。 ここまでは、私の体験したことと、学んだことから書かせていただきました。 次回から、江戸時代の貝原益軒「養生訓」から何回か学んでみたいと思います。 |
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小児と低体温症 |
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昨年にも「冷えについて」の中で、小児の低体温についてお話しました。また、いつかこのお話をしてみたいと思いつつ、ようやく今月にその機会が訪れました。 私ごとですが、いつも朝、開院準備をしながらラジオを聞いています。ちょうど私が朝の刺鍼練習をしている時間、もしくは刺鍼練習後治療に向けて指を作っている時間に好きなラジオのコーナーが始まります。「ライフパレット・子育て応援コーナー」です。こう書きますと「あぁ〜」とお分かりになられる方もいらっしゃるでしょう。私もこのコーナーのお話しを聞いて「なるほど〜」と納得させられることが多いのです。その中で「小児の低体温症」に関するお話がありました。私自身もこの問題について以前に触れていましたので、いつも以上に耳を傾けました。そして、いつかまたこの問題に触れたいと思った次第です。 現在、四人に一人の割合で低体温の小児がいるそうです。当院を訪れる小児たちも大体の場合、手足が冷たく、しかも手足がかなり湿っているのです。 小児と言えば新陳代謝が活発で、体温が高いと言うのが通り相場のはずです。よく冷え性のお母さんが子供に添い寝するとき、湯たんぽを抱いているようだと言われたものです。でも、こんな話が昔話になってしまいそうな勢いです。このことを案ずるのは私だけでしょうか。 「どうして」と問われても、そこにはいろいろな原因があげられるでしょうから「これが」と言える決定的なものをあげることは難しいでしょう。でもあえてあげてみましょう。 ひとつは、生活習慣の変化です。現在、私たちは密閉された快適な空間で生活しています。昔のように隙間風が入って寒い部屋にいることはほとんどないでしょう。そのため外界からの刺激に対して弱い状態を作り出しています。更に、問題点は、クーラーの影響が非常に大きいでしょう。 タクシーの運転手さんが言います。「クーラーで冷やされるのが一番辛いです。芯から冷えてきていくら暖めても体が元に戻らないんです。冬の暖房よりもずっと悪いですね」 もうひとつは食事の問題でしょう。外国の料理が入り込んで、目にも口にもおいしい料理があふれています。そのため、日本人が培ってきた和食・家庭料理が忘れ去られています。日本人が大切にしてきた陰・陽がなくなってきました。そのために体を芯から温める食事が追いやられ、体を冷やす食事が人気を博しています。その結果、体は冷えるべくして冷えていると言えるでしょう。 冷えのために体調を崩し、治療に来られている方が大半です。 少し考えてみてください。忙しい日々を送っておられ、そこまで余裕がないとは思いますが、低体温の虚弱な子供さんではなく、子供らしい元気一杯な湯たんぽのようなお子さんに育てたいものですね。 一考をお願いします。 |
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鍼と針について(その2)鍼の意味する本質とは |
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前回の中で鍼は「戒め」を意味し、鍼師自らを戒め、また患者さんをも戒めると書きました。そして「ひとつにする」と言う意味合いもあることに少し触れておきました。 それでは「鍼」と言う文字の「咸・かん」の意味するところから考えてみることにしましょう。 「同じにする」「心をひとつにする」と言う意味があります。更に、心をひとつにするとは、「陰陽の調和」をも示唆しています。 それでは「陰陽の調和」「同じにする」とは何を言っているのでしょうか。陰陽の世界からで東洋思想・東洋医学の基本的な考え方や思考の仕方等お話しておきましたが、ここでは「鍼・経絡治療」との関係からお話させていただきます。 まず、治療に際して五臓六腑のことから始めましょう。「陰陽の調和」とは、例えば「肺と大腸」との調和を指しています。つまり、この二つを調和させ、アンバランスな働きを等しくすることを意味しています。このことは他の臓器にも同じことが言えます。これら五臓六腑がその陰陽のバランスを整え、同じような力で働けるようにする。これを「鍼」によって実現していくこと。これが「鍼」と言う文字の現す意味と言えます。陰陽の調和、これは体のどの部位においてもです(詳細はコラム2005年の陰陽の世界からをを参照ください) これらのことでお分かりいただけたと思いますが、「鍼」は陰陽の調和を実現していくための道具、しかもそれは「気」の過不足を調整し、陰陽を調和させるための道具と言えるでしょう。 このことからも「鍼」は、単なる刺激するための道具ではないと言えるでしょう。 「鍼の本質」とは、お分かりいただけたでしょうが、経絡の虚実を捉え、補瀉することにより「陰陽の調 和」を実現していくために用いられるも。「気の調整」をするために用いられるものと言うことができるでしょう。 これらのことは、多分に私見が入っていますが、「鍼」と言う文字はこれらのことを包含し、治療法をも示唆していると言っても過言ではないかもしれませんね。 |
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最近テレビ等で日本語に関するクイズ番組が増えているようですが、そんな中に「鍼灸院」をなんと読むかという問題がありました。 結構高い確率で正解していましたので、鍼灸院も結構認知されているんだと少し安心しました。 でも、「鍼と針」がどういう違いを持っているのかまでは知らないだろうなと思ってしまいました。 「鍼」の意味がわかったら、注射針や裁縫の針から受ける「針は痛い」と言う感じを変えることができるかも知れませんね。 前置きが長くなってしまいましたので、早速本題に入りましょう。 まず「針」の意味からお話してみましょう。 針は金と十から成り立っています。金は意符・十は音符で「穴のあるはりを意味し、しつけ針・縫い針をあらわします」 つまり、私たちが日常的に使っている裁縫の針がイメージされますね。 これに対して「鍼」はどうでしょうか。 意味を調べますと、「縫い針・薬ばり・病気を治す針」となります。 この二つを比較しますと、多少の違いはありますが 大きな差はないように感じられますね。 冒頭で意気込んで話始めたのに「なんともこんなものか」と思ってしまいますね。 実は、もっと大事な意味を持っているのです。 それには中国の金・ 元の時代に医書の中に使われている「箴(はり)」と言う文字にヒントがあります。 この文字も「鍼」と同じ意味で使われ、「鍼」を意味しています。 この「箴(はり)」は、「いましめる」とも読み、 行いを戒める・季節を軽んずると言う意味を持っています。 つまり、この時代にこの文字をわざわざ使っていることに何か意味があるのでしょう。 ただ、現代に暮す私には計り知れないものがありますが、この文字の「戒める」が大切と言えます。 私たち経絡治療を行う鍼灸師は、鍼を使って「気」の過不足を調整し、痛み等、病を治していきます。 つまり、「鍼」は単に刺激するための道具ではなく、「気」を扱うものなのです。 この「気」の調整を行うためには、鍼師自身体調を整え「気」を十分に出しながら治療に当たらなければなりません。 それほどに「気」を調整すると言うことは簡単ではないのです。 その意味で、鍼師自身自らを戒めながら、患者さん一人一人に接していかなければなりません。 この意味で、「箴(はり)」は同時に「戒め」をあらわしていると言えます。 更に、この「戒め」は悪しき生活習慣によって体調を崩し、病・痛み等を発生した患者さんにも向けられています。 鍼によって「気」を調整しつつ、悪しき生活習慣等を改めさせる必要があり、 脉診等によって知りえた患者さんの悪しき習慣を指摘していかなければ治癒へと導いていけません。 この「戒める」の中に大きく二つの意味があると言えます。 更に「鍼・戒める」の意味のほかに「ひとつにする」と言う意味もあります。 この「ひとつにする」の意味を含め「鍼」の意味するもののまとめは次回に続きますのでお待ちください。 |